町田絲店の歴史

町田絲店の歴史

町田絲店はこれからも「糸」から造りあげる「絆」で
人と人とをつなぎます。

町田絲店は創業1864年という長い歴史の中で糸、紐に関する技術力を高めてきました。
現在では伝統の技術を継承しながら、お客様一人一人に合わせた商品を提案。
日々の信頼を積み重ね、常に新しい商品に挑戦していくことで、
お客様と町田絲店のこれからの100年を紡いでいきたいと考えております。

1864-1889 初代町田徳之助が糸商を創業

1864年元治元年

初代町田徳之助は24才で当時は浅草黒船町という名であった現在の場所にて糸商を始めた。主な商品は絹糸で、藤田屋を名乗る。

初代町田徳之助
1866年慶応2年
2代徳之助が4月4日に生まれる。
火災のため店舗が焼ける。
1870年明治3年
初代(30才)生糸買付の縁により渋沢栄一(後子爵)と相知る。
再び火災に罹る。
1877年明治10年
6月に群馬県富岡製糸所に行き調査をする。
2代徳之助(13才)はこの春から京都四条の寺村助右衛門氏方へ住込で奉公することになる。
この年2月の糸物類栄(東京)には東の大関として浅草黒船町藤田屋徳之助と載せられている。
1879年明治12年
東京にて大火災があり、店舗がまたも焼ける。
1880年明治13年
初代徳之助(40才)6月22日 原六郎氏等と東京貯蔵銀行を始め取締役となる。
我が国の貯蓄銀行のさきがけである。
1884年明治17年
2代徳之助(19才)京都より帰郷する。
この頃より禅学に入門。
1885年明治18年
初代徳之助らの東京貯蔵銀行は資本金を5万円に増資した(同銀行は昭和11年第百銀行と合併、後に三菱銀行に発展した)。
1888年明治21年
1月16日初代徳之助死去。
浅草橋場の保元寺に葬る。2代は3月に家督を継ぎ徳之助と改名。
2代徳之助東京糸問屋組合頭取に推され明治32年までその任にあたり、その後は顧問であった。
1889年明治22年
2代徳之助 東京貯蔵銀行監査役となる。またこの頃より小町糸の製造販売に着手。

1889年に製造販売に着手した小町糸の当時の宣伝文

1889年に製造販売に着手した小町糸の当時の宣伝文

本糸は線縷円滑にして亳も錯節なく且つ其色沢美麗なるを以て彼の小町姫に比し其名を仮りて之に名く本糸は明治廿年の頃上洲新町三井紡績所(※現在クラシエフーズの所有)に謀り創て普通手縫用糸を製し爾来其製方に理化学を応用し同廿五年更に密針用(※ミシンのこと)に適する本糸を製出せり

1890–1908 2代 徳之助が事業を発展させる

1890年明治23年

2代(25才)東京貯蔵銀行支店を厩橋の店舗の隣に新設した。
(現在の東京厚生信用組合店舗の場所)
5回目の火災。
日本メリヤス(株)を創立、監査役となる(後に相談役、明治29年解散)。

明治23年頃
1892年明治25年
2代(27才)5月、群馬県新町の内田氏の娘 せいと結婚。
1893年明治26年
2代(28才)9月、祖母みの(秩父山口氏の出)死去、85才。
1894年明治27年

2代(29才)千住馬車鉄道(株)の整理に着手、7年間その管理にあたり社長となる。

千住馬車鉄道の レリーフ (埼玉県春日部市)
1896年明治29年
2代(31才)八王子、東京、横浜、神戸などの蚕糸取引所の創立に参画し、また
内国勧業博覧会その外の審査員となる。
富士紡績(株)はこの年1月創立総会を催したが、発起人17名の中に加わった。
他に渋沢栄一、原六郎、森村市左衛門各氏の名あり。
1897年明治30年
2代(32才)東京商業会議所の議員に当選、以後昭和4年まで毎期再選、その間常議員を8年勤めた。
1901年明治34年
5月4日 長女利子出生。後に町田三郎の妻、町田絲店副社長となる。
1902年明治35年
対清国貿易に目を付け合資会社町田洋行を興して経営する。
上海の洋涯浜15番地に店を設け糸類をはじめ雑貨等の輸出を扱うが、その後大正9年頃閉鎖した(地の利が悪く、かつ外資に圧されたため)。
1903年明治36年
4月6日 母しげ(64才)死去。先代への内助の功が多かった。熊本の本妙寺、興津の清見寺に分骨した。
1904年明治37年
2代(38才)南品川仙台坂に別邸の工事を起す(当時荏原郡大井二日市町)。
1906年明治39年
富士紡績は増資し500万円の資本金となり、9月には東京瓦斯紡績を合併した。
1907年明治40年
2代(42才)この頃より人絹糸製造に注目し研究を始めた。また、数年前からの病気を克服し、酒類、タバコを自分から廃止した。

2代徳之助が半生をかけた「人絹(じんけん)」とは

2代徳之助が半生をかけた「人絹(じんけん)」とは

2代徳之助がその将来性に着目し、研究・製造に多大な労力を割いた「人絹(じんけん)」。
本年表にも度々登場するこの人絹とは、人造絹糸を縮めた呼名で、人工的に作った光沢のある絹糸のような糸という意味でつけられました。長繊維を人絹、短繊維(ステープルファイバー)をスフと呼ぶのが一般的です。絹糸に似た繊維を作るのは化学者の夢で、1882年に硝化法人絹が発明され、92年にビスコース人絹(ビスコースレーヨン)が作られ1904年に工業生産に移されました。今日でも「レーヨン」の名で世界各国で大量に作られています。

1909–1922 事業家としての活躍から人絹製造へ

1909年明治42年
2代(44才)アメリカよりの招請で、東京ほか4大都市の各商業会議所議員中より在京糸類商の代表として、渡米実業団の一員になり8月末~12月にわたりアメリカ、ハワイ視察旅行。団長は渋沢栄一氏で団員約40名。
また日本織物協会評議員となり、大正10年には理事となった。

渋沢栄一氏と渡米実業団

渋沢栄一氏と渡米実業団

「近代日本の資本主義の父」と呼ばれる渋沢栄一氏が、日本各地の実業家や有望な若手に米国社会の本質を理解してもらいたいと考えて団長を引き受け組織したのが渡米実業団でした。
3か月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、米国各地で政治・経済・社会福祉・教育など多方面の施設を見学。第27代アメリカ合衆国大統領ウィリアム・タフト、発明王トーマス・エジソン、鉄道王ジェームズ・ヒルなど各界実力者に面談し、成長著しい米国社会を体感しました。

2代 町田徳之助 ( 40才頃)
1910年明治43年
4月3日より8日にわたる6日間、亡父二十三回忌を兼ね品川別邸に園遊会を催し、5日には特に同業関係90名あまりを招いた。
11月20日にはアメリカで歓迎を受けたワシントン州市長ムーア氏を品川別邸に招き宴を設けた。
1911年明治44年
2代(46才)不動産、有価証券の管理、金融の仲介、土木建設の設計等を目的とする(株)二徳商會を設立した。社長2代徳之助、取締役に次弟藤掛与左衛門、義弟町田徳蔵、石井種一郎等で資本金100万円、事務所を町田絲店階上に置く。
1912年明治45年
(大正元年)
7月 原六郎氏が当時ピンチにあった富士製紙(株)の社長になったが、病身のため代理として2代徳之助が大正3年までその職を代行した。
後同社は昭和4年に王子製紙に合併されたが、大川平三郎、穴水要七などの人々が活躍した。
1913年大正2年
2代(48才)3月 長崎から東洋汽船天洋丸に乗船、町田洋行の視察、横浜正金銀行の要務を兼ね上海に赴く。4月帰京したが、この行で孫逸仙(孫文)、黄興、載天仇等の革命軍の壮士と同船、共に撮影したりして誼を通じた。
1915年大正4年
2代(50才)嵯峨公勝侯爵の長女幾久子(26才)と結婚。
1916年大正5年
6月12日 二男徳治生まれる。
1917年大正6年
三男 敬三生まれる。

6月 東京艶糸(株)を静岡県富士郡吉原町(現在富士市)に興し社長となった。
重役には渡辺定二(現地の人)、町田徳蔵、藤掛与左衛門、瓜生久吉(町田絲店支配人)、木村才次郎(現地の人)等で資本金100万円、電線コード被覆、製紐、たたみ縁などの製造。戦後一時製紙に転換したが昭和30年解散。
1918年大正7年
2代(53才) 12月26日をもって町田絲店を株式会社に改め、重役は社長徳之助、常務大川直久、取締役に町田徳蔵、瓜生久吉、小野千吉、監査役宮崎慶太郎 (八王子の人)、野々口貞一郎で資本金100万円、株主23名。
1919年大正8年
2代(54才)人絹製造が盛んになることを確信し、益々研究しようと決心した。
1月町田絲店の第1回総会、4月臨時総会を行い、以後は6・12月を決算とした。
四男 純生まれる。
1920年大正9年
2代(55才)次弟藤掛与左衛門をヨーロッパに赴かせ、ドイツ、イタリア等の人絹糸事業の視察にあたらせた。
この年春頃より町田絲店で手編毛糸を扱うことになった。5月頃の店員として大川直久、瓜生久吉、関徳蔵、藤掛金吾、広部土松、瓜生吟次郎、渡辺綱、向田善作、岡本繁治、前田良太郎、堀越重二、石井英祐、中村勇吉、槇島彦太郎等の名前あり。
1921年大正10年
神奈川県松田町に個人経営の東京人造絹糸製造所を作り、人絹糸の製造に着手した。技師大竹勇二、山田右京、米田某及びドイツより招いたドイツ人技師等で、機械もドイツより買い入れたものである。

1923–1932 関東大震災と不屈の再建

1923年大正12年

2代(57才)関東大震災のため厩橋の店舗は全焼、松田町の人絹製造所は山津波で埋没、鎌倉七里ヶ浜に避暑中の妻子のうち三・四男は圧死する。また支配人大川直久は被服廠に避難中行方不明。このような悲惨事にも負けることなく再建に専念した。青年時代からの禅の修養が役に立った。

11月 五男 勉が生まれる。

大正11年頃
1924年大正13年
2代(58才)新たに人絹糸工場の適地を考えた末、水の便の良い静岡県富士郡吉原町に建設しようと決めた。
1925年大正14年

2代徳之助(60才)11月 東京人造絹糸吉原工場が竣工した。

2代 町田徳之助 ( 60才頃)
1926年大正15年
(昭和元年)

4月 資本金1,000万円にて東京人造絹糸株式会社を創立する。本社を厩橋の町田絲店内に置き、徳之助が社長に就任した。
常務に次弟藤掛与左衛門、取締役に義弟町田徳蔵、渡辺定二、監査役には甥若林亀之助がそれぞれ就任した。

東京人造絹糸 本社
1927年昭和2年
徳之助(62才)は、金融恐慌を心配し、頭取であった東京貯蔵銀行に預金者が集った際、敢然演説を試み、銀行のピンチを救う。
1928年昭和3年
徳之助(63才)11月書道の師樋口竹香翁のため、鎌倉円覚寺に健碑、また竹香遺稿を作る。
徳之助長女利子、永井三郎と結婚。後に町田商事株式会社 社長となる。
1929年昭和4年
11月、前年より着工中の店舗が落成した。鉄筋、耐震、耐火構造5階建て(延べ約280坪)。1階を販売部とし、2階以上に東京人絹、二徳商會、東京艶糸各社事務所と会議室、住込店員宿泊室等を置いた。
屋上から遠く隅田川一帯を鳥瞰できた。当時厩橋交差点付近にはビルは一つもなかった。

日本近代建築史に残る旧町田絲店ビル

日本近代建築史に残る旧町田絲店ビル

昭和4年に落成し、昭和57年に現在の新ビルに建て替えられるまで周辺のシンボルであり続けた町田絲店旧社屋。落成当時のビル屋上から撮影したパノラマ写真から見てとれるように周囲にビルは一つもなく、向かいに建設中の第一銀行(現みずほ銀行)ビルと共に"近代ビル"として世間の耳目を集めました。
日本建築学会による、近代建築が全国規模で収録された『日本近代建築総覧』(1980年刊)にも旧町田ビルは掲載されており、安藤組の設計、施工であったこと、建築当時としては相当立派な建物であったこと等がわかります。

昭和4年頃
1930年昭和5年
4月 天皇陛下静岡県下をご巡行に際し、特に侍従牧野氏を東京人絹吉原工場に差遣された。
5月に同社製品を献上する。
1931年昭和6年
この頃町田絲店はスキー毛糸卸会東京藤幸会のメンバーであった。
4月 義弟町田徳蔵死去(妹フジ子の夫)。

1933–1944 学校教育への情熱と太平洋戦争

1933年昭和8年
徳之助(68才)4月東京人絹吉原工場内睡鴨園に従業員一同から寿像を贈られた。
5月、吉原市に東京人絹織布株式会社を設立。
1934年昭和9年
町田絲店は創業70年になった。前年皇太子の誕生もあり、大いに感激し、私財100万円を投じ、かつ品川邸内の土地2千坪を寄附して、町田報徳会(男子3年制商業学校)を設立した。
(2月申請、9月文部大臣認可)
1935年昭和10年
徳之助(70才)は、3、4月の頃、妻子並びに嵯峨老母を伴い、京都より九州各地へ旅行した。
4月 町田報徳学舎の新校舎が落成し、第1回の入学生を迎えた。
8月 財団法人池田奨学会理事となる。
1936年昭和11年
徳之助(71才)1月 鳩山春子氏等の共立女子学園評議員兼監事に迎えられた。
3月には興禅護国会を再興、会長に推された。
9月 東京貯蔵株式会社(貯蔵銀行の合併記念)を設立した。
1937年昭和12年
4月17日 先代の50周年忌法要を品川邸にて営む。
4月、かねて建設中の東京人絹沼津工場(現フジクラ沼津事務所)完成。スフの専門工場で日産30トン。自家発電、廃液処理設備、薬品自給体制(硫酸、二硫化炭素)を備える。
1938年昭和13年
徳之助(73才)吉原市(現在富士市)田子の浦に東海工業学舎を設立する。
東京の町田報徳学舎の商業教育に対して工業校とする(現在静岡県立吉原工業高等学校)。
1939年昭和14年
徳之助(74才)政府の方針で卸小売の兼営が不可能になり、町田絲店の卸部門を独立させ、11月に町田商事株式会社を設立する(取締役町田三郎、三島定雄、石井種一郎等)。資本金19万5千円。
また国策の線に沿い、逗子町桜山に東洋パラシュート(株)を興す。敷地3千坪、工場550坪。社長徳之助、重役に田中文三、武藤彦太郎(逗子の人)石井種一郎等をあてる。工員男女約200名。なおその下請け作業のため、天竜工業(浜松市)鶴川製紐(町田市)等も経営する。
東洋パラシュートは後に福島県川俣にも工場を持つ。この頃店員の応召、徴用多く、人手不足となる。
1940年昭和15年
徳治(25才)は4月下郷寿子(当時の東京人絹社長下郷豊彦の長女、21才)と結婚し、町田系各社の重役となり、通勤し始める。
町田絲店創業77年につき勤続者を表彰する。
石井種一郎(26年)渡辺綱(25年)向田善作(25年)槇島彦太郎(24年)中村光一(23年)鹿島田勝雄(22年)藤掛金吾(22年)三島定雄(17年)蔦岡元一郎(16年)住正二郎(14年)児玉直昌(9年)等の名があった。
1941年昭和16年
徳之助(76才)町田商事は戦時統制により、日本綿縫糸、日本絹縫糸両統制会社の指定配給所になる。また両社に役員として三島定雄、内田真司が送られた。
徳治長男保徳生まれる(7月)。
10月、浅草商工育英会を設立する。
7月、徳之助妻幾久子の父嵯峨公勝氏死去。
企業整備により東京人絹(株)解散。
1942年昭和17年
手編毛糸の配給統制機関として手編毛糸配給統制株式会社(資本金300万円)が創立された。町田商事は950株の株主となる。
町田絲店は浅草第二衣料配給所として指定される。
徳治二男 治郎生まれる(10月)。

繊維製品の販売禁止と配給切符制

繊維製品の販売禁止と配給切符制

太平洋戦争に入ると繊維製品の販売は禁止されて、1942年2月には「繊維製品配給統制規則」によって衣類の総合的な配給切符制が実施されました。
この衣料切符の点数は2種類あり、甲は郡部で1人あたり一律80点、乙は都市(市制施行地を主体とする)で100点と決められていました。
衣料の品目別点数をかいつまんで紹介すると〈背広三揃 50点〉〈男子外套 50点〉〈レインコート 30点〉〈婦人服ワンピース 15点〉〈もんぺ 10点〉〈シャツ長袖 12点〉〈毛糸 2点〉〈縫い糸 1点〉等となっていました。

1943年昭和18年
7月、黒船町11番地は台東区浅草駒形1丁目1番地となる。

1945–1957 戦災からの再建と3代目の就任

1945年昭和20年
3月の空襲により、ビル内部まで火災に遭い、書類をはじめ社印一切消失。幸いに店内での死者はなかったが、社員の被災も多く、当分は営業の目途が立たなかった。とりあえず南品川邸内の町田報徳学舎を仮事務所とし、残務整理にあたった。当時残留している社員は町田絲店10人、町田商事14人であり、二徳商曾では中山亀吉が戦災死した。

7月 沼津千本松原の別荘も空襲に遭う。

12月6日、徳之助妻幾久子病死(56才)。
1946年昭和21年
かねて焼跡の整理を急いでいたが、ようやく10月に駒形にて業務を再開する。ただし町田絲店は商品も少なく、書籍雑誌等も販売した。
徳治長女寿枝子生まれる(11月)。
1947年昭和22年
82才。老齢にも不拘、絲店・商事の再建、町田学園の戦後の方針等につき努力し、また吉原市へも度々赴いた。
1948年昭和23年
徳之助は町田絲店社長を徳治に譲り、会長となる。
1950年昭和25年
徳之助身体不自由となり、しばしば熱海等に赴き医薬に親しむ。主治医山川一郎 博士。

町田商事はビクター毛糸の取扱を再開。
1951年昭和26年
徳之助の寿像、平櫛田中氏(芸術院会長)の制作により完成する。

日本近代彫刻界の巨匠 平櫛田中

日本近代彫刻界の巨匠 平櫛田中

明治・大正・昭和の三代にわたって活躍した近代日本を代表する彫刻家、平櫛田中。
その手による2代目徳之助の肖像彫刻が町田絲店の正面入口に展示されています。田中の作風である優れた写実性で表現された徳之助の姿は、制作されてから60年以上を経た今でも生き生きとし、社歴を重ねる町田絲店を見守り続けています。
下記年表中に登場し、歌舞伎座に寄贈したとされる木彫作品「鏡獅子」は、国立劇場にある、田中が20年の歳月をかけて完成させた代表作「鏡獅子」の試作のうちの一つであると考えられます。

1952年昭和27年
5月10日、2代徳之助死去。享年87才。
明徳院実誉浄鉄睡鴨居士とおくり名す。
朝比奈宗源円覚寺管長導師となり品川邸にて告別式を行う。
遺骨は保元寺、円覚寺、清水寺へ分骨する。

6月、ビクター会の一行34名、日毛加古川工場を見学する。
1953年昭和28年
5月10日、2代徳之助一周忌を橋場保元寺にて営む。
平櫛田中先生作の木彫尾上菊五郎の鏡獅子を歌舞伎座に寄贈する。
5月、町田商事の資本金800万円に増資する。
1954年昭和29年
2代徳之助三回忌を営む。
6月、ビクター会(ビクター毛糸取扱小売店の会)の第1回を椿山荘に開く。
1955年昭和30年
11月、町田商事の決算期を変更する(5月1日より4月30日まで年一期)。
1956年昭和31年

天下一印絹ミシン糸の標語を募集。「笑顔で縫える」が当選、記念売出しを行う。

天下一印絹ミシン糸の標語を募集。「笑顔で縫える」が当選、記念売出しを行う。

1958–1970 創業100周年と商品の多品種化

1958年昭和33年
2代徳之助の七回忌。
1959年昭和34年
7月、日本手編毛糸小売組合東部連合会ができ、町田徳治がその会長に選ばれた。
1960年昭和35年
東京糸問屋同業会の創立100年、再建10年の記念式典が椿山荘で行われた。永年勤続社員の表彰式に町田商事からも多数受賞した。
1961年昭和36年
ニッケビクター毛糸40周年記念として日本毛織より感謝状を受けた。

町田商事の資本金1,800万円に増資する。

11月、得意先店員を日本毛織中山工場見学会に招く。
1962年昭和37年
10月、町田絲店常務向田善作死去(63才)。
同氏は在勤45年、2代、3代社長を補佐し、よく難局を処理した(群馬県桐生市の出身)。
1963年昭和38年

7月、町田商事仙台営業所を新設する。

7月、町田商事仙台営業所を新設する。
1964年昭和39年
創業100周年になる。
5月、100周年記念ビクター会を熱海ニューフジヤホテルで開く。特に日毛阿部社長も出席、祝辞を述べられる。

9月16日町田利子急逝する(2代徳之助の長女、町田絲店副社長、63才)。書道、短歌を趣味とし、また熱心なキリスト教徒であり、霊名をセシリアと称する。
町田絲店の社葬とし、調布カトリック墓地に葬る。
1965年昭和40年

3月 元町田商事常務三島定雄死去(59才)。
4月18日椿山荘において町田100周年記念祭を催す。
(縁故関係者のみ)

元円覚寺管長・故朝比奈宗源 老師の筆により町田絲店創業 100周年記念に揮毫された書
1967年昭和42年
3月29日、町田商事社長町田三郎死去(70才)。
同社長に町田徳治就任。
1969年昭和44年
3月、町田絲店、資本金2,000万円に変更登記。

9月、町田商事、ハマナカ手芸糸の取扱開始。
1970年昭和45年
9月、町田商事、手編製品のマークを “サンマーチ” と決定。

1971–2008 現社屋の完成と商品開発への熱意

1971年昭和46年
4月、カチカチボールの流行に伴い副資材の紐の需要増大。

6月、治郎長男 俊治誕生。

雑貨手芸品取扱開始(町田商事)。
1978年昭和53年

5月26日、社長町田徳治死去。享年61才。
6月、町田絲店社長に町田寿子就任。
6月、町田商事社長に町田治郎就任。
10月、町田絲店社長に町田保徳就任。
町田商事、手編製品のマーク「ウィンザーマーチ」を採用。

糸・毛糸・ニット製品の専門商社
「町田商事」が果たした役割

糸・毛糸・ニット製品の専門商社「町田商事」が果たした役割

町田商事の発足は昭和14年。戦時下における企業統制によって卸・小売の併営が禁止されたため、町田絲店の卸部門が分離・独立することになったものです。戦後の再生にあたっても町田絲店の卸部門はそのまま町田商事が受け継ぐことになりました。
絹糸、毛糸、刺しゅう糸、手芸糸、ニット製品、編み針、ゴム紐、雑貨一般といった取扱品目の中でも、主力の糸・毛糸では天下一印、金的印などのオウンブランドの発売元であり、これらのブランドは現在でも町田絲店で継続して取り扱っています。

4代 町田寿子5代 町田保徳
1982年昭和57年

町田絲店、資本金3,000万円に増資。

現在の新ビル落成、創業120周年。

昭和60年頃
1995年平成7年
卸部門 町田商事株式会社解散。
1998年平成10年
携帯電話の普及によりストラップ・ネックピースの需要が急増。

商品出荷の内容が加工を施す注文に対応できるようになる。
2003年平成15年

4月、町田治郎社長就任。

6代 町田治郎
2005年平成17年
東京モード学園とのコラボレーションによる店頭ディスプレイコンテスト開催。
2007年平成19年

町田ビル1階店舗リニューアルオープン。
「老舗の技を現代にいかしつつ、新しい物作りにも挑戦する」という町田絲店のコンセプトショップとして生まれ変わる。

町田絲店のコンセプトを表すショップ

町田絲店のコンセプトを表すショップ

2007年にリニューアルオープンした町田ビル1階の店舗。ショップコンセプトは「昔ながらの伝統文化と近代的デザインの融合」です。「老舗の技を現代にいかしつつ、新しい物作りにも挑戦する」という町田絲店のコンセプトに合わせたショップとなっています。細くて長い物(糸、紐)であれば、何でも取り扱い、数えきれないほどの商品がありますので、ショップを大きなサンプル帳としてご活用いただければ皆様の作りたい物、探し物がきっと見つかるのではないでしょうか。

平成19年

2009–2014 挑戦を続けて未来へ

2009年平成21年
テロや小学生などを狙った事件が多発。防犯対策としてのセキュリティー関連の商品の需要が多くなる。
2010年平成22年

11月1日、町田俊治社長就任。

前社長町田治郎 駒形南町会、町会長就任。

4月、株式会社二徳商會創業100周年を迎える。

7代 町田俊治
2011年平成23年

町田俊治、東京青年会議所台東区委員会 第37代委員長に就任。

町田治郎、50周年を迎えた東日本繊維資材商業協同組合理事長に就任。

9月、東京インターナショナル・ギフト・ショーに出展。

ギフト・ショー の町田ブース
2012年平成24年
元社長町田寿子死去。91才。
2013年平成25年
町田治郎、繊維資材商業組合連合会 会長就任。

10月 全国繊維資材 東京大会が開催される。
2014年平成26年
4月23日、浅草ビューホテルにおいて創業150周年感謝の集いを催す。

Trying to Next 100 Years
これからも皆様と共に…

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